2021年07月31日

東京オリンピックに思う


私は、TVを全くと言っていいほどつけません。

子どもの頃からラジオっ子だった私は、本当にTVよりラジオを聴いている人で

一緒に暮らし始めた時の夫もテレビをリビングに置いていなかったので

そのまま今も、テレビがリビングにない生活なのです。

地デジ完全移行になって、もうTVはいらないねという話になったのだけど

震災後ということもあり、何かあった時のために一応持つだけ持っておきな!と

友人が使わなくなったテレビを譲ってくれました。


何が言いたいかと言うと

そんな生活だから、オリンピックも毎度、ちゃんと見てはいないのです。

これまでのオリンピックも、自分がやっていた水泳は、時々見ていたくらい。

スポーツも、今や阪神ファンって名乗れないほど野球も見ていないし…



今回の東京オリンピックについては

1番最初にクラスターが起こって槍玉に上がったのがライブハウスで

それ以降ずーーーっとコロナの影響を受け続けてきた音楽業界にいる身としては

なんだってこんなにみんなが苦しんでいるときに

「平和の祭典」だなんてよく言えるものだと

開催する人たちは、コロナで家族や大切な人を亡くした方々や

生活自体苦しい人の気持ちを

全く理解しようとしていないのだろうと

開催自体には、非常に「疑問」を通り越して「嫌悪感」を抱いていました。


でも、一人一人のアスリートは、本当に一生懸命やってきて

何も悪くはないのですものね。

こんな逆境の中でも、ひたすら努力している方々なので

そこに嫌悪感はありません。

実際に競技が始まると、やはり日本人選手を応援してしまう自分がいますし。


なので、ネットから流れてくる結果には

お〜!と言う感じで反応はしています。


だけど、今回どうしても不満なのは

やはり開会式。

途切れ途切れで、全部見たわけではありませんが

もしかして、すごくいいものが観れるのではないかと半分期待をしていました。


でもオリンピック自体、日本人を蔑ろにして強行開催された上

開会式では、日本の文化を蔑ろにされたような気持ちになりました。


TV用の演出で、軽い薄っぺらい感じがしました。

なぜ、日本の文化、大切に守り伝えてきているもの、人を

誇りを持って披露しないのでしょうか。

例えば和太鼓で幕開けしたら

和楽器を使ったり、毛筆や殺陣、能、日舞を披露したら

もっと重厚感があり、艶やかさ、粋、派手、所作の美、

品のある日本を感じられたのではないか

祭典なのですから、祭囃子を取り入れたり

タップダンスではなく例えば阿波踊りや花笠音頭を入れたら

華やかな盛り上がりはまた、違うものになったのではないか。


国歌だって、せっかくのMISIAさんの歌声です。

私だったら雅楽とオケをバックにするだろうな。

正直、残念で仕方ないです。


また、後になってから

207カ国の国旗をモチーフにした着物が

開会式を目指していたのに、全く使われなかったと知り

日本の演出家クリエイターたちは、自国を好きじゃないのか?

と言うよりも、知識や自信や誇りがないのか?と

残念度が増して仕方ないです。

関わった人たちの日本へのリスペクトが、軽すぎると感じました。


海外で、箏のコンサートを何度かしている私は

例えばその国の有名アーティストの曲を箏でカバーするよりも

観客の誰もが知らない日本独自、箏独自の曲を弾いた方が

断然ウケがいいことを知っています。

そういうの、開会式の演出家は本当に知らなかったのかなぁ。


別にアニメやゲームを否定するわけではありません。

それもまた、日本の大切な文化です。

私はゲームはやらないので、曲もほぼ全部知らない曲でしたが

知っている人からすれば、とてもワクワクする時間だったと思います。


ピクトグラムは、パフォーマーは素晴らしいと思いましたし

考え方自体は面白いけれど

会場で見ていたら、よくわからなかったかも。

やはりテレビで見る用に作られた感じは否めませんでした。



でもなぁ〜、コロナさえなければ、また違ったオリンピックになり

私ももっと素直に応援できたのかもしれません。

そういう意味で、やっぱり、今じゃなかったよなぁ。


posted by 宮西 希 at 00:54| Comment(0) | 希の考察
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。